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フェンシングの歴史をご紹介!発祥時期や正式種目に採用されたオリンピックも!

フェンシングの歴史は、フランスの中世騎士時代まで遡ります。騎士の嗜み事として発祥したフェンシングの歴史から、日本における発祥の流れを紹介!また、フェンシングの規則や審判法の発祥や歴史も解説します。フェンシングの歴史が分かると、試合観戦が数倍楽しくなるでしょう。
2021年10月8日
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フェンシングの歴史に興味津々!

フェンシングの歴史を学ぼう

きらりと光る剣先をしならせて戦うフェンシングは、近代オリンピックの種目の中でも人気があります。現代的なユニフォーム姿や整備されたフィールドで戦う種目なので、フェンシングは歴史が浅いものというイメージがあるかもしれません。

しかし、フェンシングの歴史は想像以上に深く、さまざまなできごとを通して大きく発達してきました。はるか昔から続くフェンシングの歴史、発達のきっかけ、オリンピックで正式採用された経緯をはじめ、種目やジャッジ方法の成立を確認しましょう。

フェンシングの起源とは

フェンシングの歴史は紀元前から始まる

フェンシングの歴史の痕跡は紀元前から見ることができます。古代エジプトの王であるラムゼス三世によって建立された寺の壁に、フェイスマスクを付けフェンシングの剣に似た刀を持った人間が描かれていたのです。

上記の寺は古代のオリンピックの約4世紀も前に建てられたという歴史があります。また絵の横には古代文字もあり、この人間が競技に臨んでいることを示していたのです。しかし、以降エジプトにおいてフェンシングが行われていた、という歴史は残されていません。

欧州におけるフェンシングの起源とは

欧州におけるフェンシングの起源は古代ローマ帝国の時代まで遡ります。当時のローマ帝国の人々は身近なものを武器に仕立てて、刈りや害獣から身を守っていたという歴史があります。初めは木でできた武器を使っていましたが、時代が流れると金属製の武器が開発されました。

金属製の武器の種類はさまざまでしたが、重量もある分厚い刀剣が主流であったと言われています。しかし騎士たちの技術が磨かれるにつれて、新たな剣が発達するようになったのです。

フェンシング剣の原型が生まれるまで

重く分厚い刀では戦いきれなくなった騎士たちは、細く軽い剣を開発したという記録が歴史に残っています。新しく開発された剣はラピエールと呼ばれ、斬ることより突くことを目的とした武器でした。

従来の剣は両手で支えるタイプでしたが、軽量になったことで片手使いが容易になったのです。騎士たちはラピエールを主な武器として戦闘に臨むようになりました。このラピエールこそ、フェンシング剣の原型と言われています。

フェンシングの歴史【発祥編】

フランスにおける発祥の歴史とは

ローマ帝国を祖とするフェンシングの歴史は、フランスに移っていきます。さまざまな革命や戦争が日常茶飯事だった中でフランス人は、ラピエールを利用した戦術に磨きをかけていくのです。

やがて時代が進むとともに火砲などが発達し、フランス人が剣で戦う機会は少なくなっていきます。しかし、フランス人は一瞬で勝敗が決まるスピード感や剣さばきに魅了され、騎士の嗜みとして剣使いを練習するようになりました。これがフェンシングの発祥とされています。

スポーツとして急速普及した歴史とは

教養としてフェンシングが行われるようになり、スポーツとして急速に発達していきます。フェンシングという名称は、スポーツにおける守る(fence)が元の言葉という説が有力です。

戦闘時に使っていたフェンシングの剣先は鋭角で重いものでしたが、この頃になると軽量でスポーツ仕様の剣が発達していきます。とはいえ剣先が鋭角であることは変わらず、顔面を守りきれない点が課題でもありました。


オリンピックに正式に採用された歴史とは

フェンシングの剣先の安全性を懸念した人々は、1750年に金属仕様のマスクを作りだしました。現在のマスクの元となり、歴史上偉大な功績であったと言えます。安全に試合が行われるようになったことで、公式の試合も多く実施されるようになりました。

こういった流れを受け、フェンシングは欧州全域で競技としての地位を確立し、1896年の第1回近代オリンピックに競技として採用されることになったのです。

現代フェンシングの歴史の変遷とは

Photo byStockSnap

第1回目のオリンピック以降、基本的にフェンシングは途切れることなく採用されています。現代のフェンシングはフランスをはじめとする欧州が一強を担っている印象ですね。

現在はイタリアやハンガリーにも人気・有名選手が数多く存在し、子供の習い事の1つとしても人気と言えます。欧州においてフェンシングは、幼少期から親しまれる競技であると言えるでしょう。

フェンシングの歴史【日本伝来編】

日本に伝来した歴史とは

日本に初めてフェンシングが伝わったのは、明治時代はじめ頃と言われています。当時の日本は、戦争に備えて武術や戦闘術などを軍学校で学ぶ時代。日本軍がフランス人の講師を招いた際に、フェンシングの剣さばきが教授されたという歴史があります。しかし、時代柄もありフェンシングは欧州ほど発達することはなかったのです。

スポーツとして国内に波及した歴史とは

時代は流れ1932年、政治家岩倉具視の子孫にあたる具清がフランス留学から帰国します。具清は1935年に日本フェンシングクラブを赤坂に起こし、学生にフェンシングを教授したのです。これを契機にフェンシングは各大学に少しずつ波及していきます。岩倉具清は歴史上のフェンシング立役者となったのです。

学生・教授たちの奮闘の歴史とは

日本フェンシングクラブの創立以降、学生のみならず、教授たちもフェンシングの波及に努めようと奔走します。法政大学では本間喜一教授、および学生である渋谷忠三氏がフェンシング部を創り、学生らにフェンシングの技術を教えました。

その他慶応大学も同年にフェンシング部を創設した記録があります。その後、2校協力の上、オリンピック正式採用に向けて尽力するのです。

フェンシングの歴史【オリンピック出場編】

オリンピックに出場できなかった歴史とは

フェンシング部を創立した学生らは、1940年に開催予定だった東京オリンピックへの採用・出場に奔走します。しかし、当時の日本は戦況が悪くなりつつある時代でした。フェンシングのみならず、外国に由来する競技は正式採用が難しいと判断されたのです。

結局、日本オリンピック委員よりフェンシングの採用不可という通達がなされ、オリンピック自体も戦争の状況を考慮し未開催となってしまいました。

悲願のオリンピック初出場の歴史

フェンシングの競技の採用・出場が消えてしまったという出来事の後にも、人々は技の研鑽に励んだそうです。慶応大学の学生は、度重なる暴動の中でも練習し続けたという記録もあります。

そしてついに1952年のヘルシンキ大会にて、慶応大学の牧真一選手が日本代表選手として初出場を果たしました。日本のフェンシング界の歴史上、記念すべき日となったのです。

現代の日本フェンシングの変遷とは


オリンピックヘルシンキ大会以後、1964年の東京大会では団体で4位入賞を果たしました。しかし、以降は長くメダルが獲れない時代が続いてしまったのです。

日本フェンシング協会は選手層強化に乗り出し、フルーレ・エペは徐々に強くなっていきました。近年の記録としては、2008年北京大会は個人で銀、2012年ロンドン大会は団体で銀、2021年東京大会は団体で金を獲得しています。

フェンシングの歴史【種目編】

古代種目の歴史とは

古代の大会では、フルーレやエペ、サーブルを中心に行われていましたが、フルーレとエペに関しては途中実施されなかった時もあります。歴史上フルーレは第4回、エペは第1回の実施記録がありません。しかし、1912年の第5回大会以降は同3種目いずれとも欠けることなく採用されています。

現在実施がない種目とは

シングルスティックというスポーツは、現在のフェンシングにおいて行われていない種目の1つです。シングルスティックは、木棒1本で相手に攻撃を仕掛ける競技でした。

シングルスティックがフェンシング種目として採用されたのは、歴史上第3回大会のみという記録が残っています。固い棒で戦うという点は、現在のライトセーバーフェンシングに面影が残っていると言えるでしょう。

車いす種目の歴史とは

車いす種目は、一般のフェンシングよりもかなり後に発祥した記録があります。1940年頃から車いすを用いたスポーツが行われるようになり、フェンシングは車いすバスケットボールに遅れるように発達していきました。

1960年、世界初のパラリンピックが開催され、車いすフェンシングは同大会以降変わらずに種目採用されています。日本ではまだ競技人口は少なく、欧州をメインとした種目です。

男子・女子の種目の歴史とは

フェンシングの歴史上、主となる選手陣は男子でした。古代から男子たるもの決闘するものという世間の風潮があったためでしょう。男子はフェンシングがスポーツ競技として繁栄して以降、変わらずに大会に参加しています。

一方の女子が公式大会に初めて出場したのは、オリンピックパリ大会(1924年)です。当初はフルーレに限って出場が認可され、追ってエペ、サーブルと解禁されました。日本の女子選手の初出場は1996年アトランタ大会です。

個人・団体の種目の歴史とは

オリンピックのフェンシングには現在個人と団体の両方がありますが、歴史上では個人戦のほうが長いです。3つある種目のいずれとも、まずは個人試合が実施され、数年後に団体戦が設立されています。

女子の団体試合は導入が遅く、例えば女子のフルーレ個人は1924年パリ大会に始まっていますが、団体が導入されたのは1960年ローマ大会となっています。その後も当時の状況によって欠けたものもありつつ、2021年東京オリンピックでは全種目が実施されました。

フェンシングの歴史【規則・審判編】

古代における規則・審判の歴史とは

古代フェンシングの歴史を確認していくと、当時のフェンシングは基礎ルールがなく、審判員もいない状態で戦っていたことが分かります。とはいえ全く規則・審判がないというわけではなく、実施場所や国によって規則が違っていたのです。

競技として行われるようになっても数年状況は変わらず、大きな試合や国間で戦った時は、規則・審判に関する争いが絶えなかったと言えます。これではゲームにならない、ということで世界的な連盟が動き出したのです。

公式規則の制定までの歴史とは


より安全に、そして公平な試合を行うために、国際オリンピック委員会は明確な規則や審判制度の施工を試みます。そして1914年フランスパリにて国際オリンピック委員会の公式会議が開かれたのです。

同会議においてフェンシングの公式規則・審判制が考案され、同年以降の公式試合で正式採用されました。以後も微細な変更はなされているものの、基礎の規則・審判法は変わらず、試合時のいざこざもなくなり安全になりました。

現代における公式規則とは

現代における公式規則は攻撃権(優先権とも呼ばれます)が鍵となります。とはいえいずれの種目の規則にも共通するポイントは、有効となる箇所を剣先で突いているかどうかという点です。フルーレなら胴、エペは全身、サーブルは上半身に剣先が当たっているかといった感じですね。

また、プレジダンが電気審判の力を借りてジャッジしている点も、古代と大きく違います。規則や審判制度がはっきりとしていなかった昔と比べると、初心者でも分かりやすい規則・制度になりました。

古代・現代の審判方法の歴史とは

古代のフェンシングの試合では主審のみがジャッジを行うのが一般的でした。現代フェンシングの場合、主審(プレジダン)も変わらずいますが、原則専用機械が審判をします。機械はフェンシングの剣先に仕込まれたセンサーで、自動審判するのです。

しかし、はじめから電気審判があったわけではなく、初めて採用されたのは1933年頃でした。現在プレジダンは、攻撃権のジャッジや号令などを行いますが、細かなジャッジは電気審判が判定していると考えましょう。

まとめ

Photo byPexels

フェンシングの歴史や発祥の流れを詳しく紹介しました。古代でははっきりとしたフェンシング規則や審判制が無いという状態の中、騎士の嗜み事として楽しまれていたのです。歴史が流れ、規則や審判制も導入された頃、日本でもフェンシングが発祥します。

日本では大学生らの尽力により普及していったのです。現代の日本フェンシングは、こういった人々のおかげで発達してきたと言えます。フェンシングの歴史や発祥を学ぶと、フェンシング観戦がますます面白くなりますよ。

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