日本の馬術の歴史
日本馬術の歴史は戦の歴史
人と馬との歴史は人類が農業を始めた頃より始まり、農耕を助ける家畜として飼われていたました。当時はまだ馬に乗馬する技術や道具がなく、馬は荷物を運ぶ歴史がしばらく続きます。
4世紀末に中国大陸より軍人の騎馬が日本に伝わったのが馬術の歴史の始まりです。それまで馬に乗るということを知らなかった日本人にとって、騎馬という馬術は画期的なことでした。以来日本の馬術は武士と戦の歴史によって作られて行きます。
日本特有の古式馬術の歴史
武家が台頭した鎌倉時代に入ると、疾走する馬上から弓を射る流鏑馬(やぶさめ)や笠懸(かさがけ)が、武士のたしなみの馬術として確立されました。
また馬上からの攻撃は戦闘能力が高く、戦国時代の数々の戦いでも騎馬の活躍が勝敗を分け、鎧甲冑と帯刀して臨む技術が磨かれて行くのです。さらに馬の走るスピードは人間の比ではないので、早馬(はやうま)のように急を要する伝達手段としても馬術が重要になりました。
戦国時代の馬術の歴史
戦国時代、天下統一を目の前にした織田信長が明智光秀に打たれた有名な「本能寺の変」ですが、この時に活躍したのが早馬と騎馬馬術です。三日天下と言われる明智光秀はたったの11日で秀吉に倒されてしまいます。
このとき秀吉は京都(本能寺)から約300kmも離れた岡山にいました。新幹線も自動車もない当時「本能寺の変」を知り得たのは早馬のスピードと短期間で京都まで移動できたのは騎馬を扱う馬術があったからです。
武士馬術の主流は騎馬と早馬
戦闘では情報が最も重要です。そのため馬を疲れさせず、いかに早く走らせるかという早馬の技術の向上が大切になりました。またその情報をもとに敵を倒すための騎馬馬術が重要です。鎧や刀の重さに耐える馬の育成と、鎧刀をつけたままで馬を扱う技術が戦国馬術の主流になりました。
関ヶ原の合戦を経て江戸時代が終わるまでの日本の馬術の歴史は、騎馬と早馬の技術に努めた武士馬術の歴史といっても過言ではありません。
江戸時代までの日本の馬術は戦の手段
明治維新で西洋馬術が取り入れられるまでの日本の馬術の歴史はは、戦の手段・武士馬術としてその技術が磨かれてきたのです。鎌倉時代に確立された流鏑馬や笠懸は、現在は伝統馬術として全国各地の神社の神事やイベントとして開催されています。
また流鏑馬には小笠原流と武田流の2派があり、世界に誇る大俳優の故三船敏郎氏も武田流の門人でした。それは武田流の宗家と親交があり、時代劇の撮影には欠かせない馬術だったのです。
西洋馬術が日本に導入された歴史
明治時代になり政府が軍隊に西洋馬術(ブリティッシュ馬術)を軍人の修練として導入したのが、日本の近代馬術の歴史の始まりです。これにより江戸時代まで伝わっていた日本古来の馬術は次第に廃れて行きました。以後、第二次大戦が終了するまで日本の馬術はブリティッシュ馬術がその歴史の主流を作ってきたのです。
大学の馬術の歴史
大学の馬術の歴史は、1879年(明治12年)学習院大学の前身「神田錦町校舎」が馬術を正規科目に取り入れたのが最初です。大正時代には旧帝国大学(現在の国立大)や私立大に馬術部が設立され、大会も多く開催されて全国に広がりました。
現在ブリティッシュ馬術をを行う大学は約100校もあり、大学内に馬場を持つ大学も多く部員自らが馬の管理をしています。このように大学は日本馬術の歴史に大きく影響を与えた存在です。
日本の馬術の歴史を支えるもの
日本の馬術は農耕による馬との関わりから始まり、武士のたしなみとして取り入れられた流鏑馬などの伝統馬術、明治期の軍隊が採用したブリティッシュ馬術、大学の馬術部、近代オリンピックなどが歴史を作ってきました。
日本の馬術を支えてきたのは、農耕、武士、軍隊、大学、そしてオリンピックといっても過言ではありません。それぞれが日本馬術の発展の歴史に貢献してきたのです。
日本の伝統馬術と西洋馬術の違い
日本馬術も西洋馬術も同じように戦いのスタイルとして創られたのですが、日本馬術は武士という特定の身分階級のみが必要とした武術だったため、武士社会が崩壊した明治以降には廃れていき伝統馬術としてのみ継承されています。
いっぽう西洋馬術は最初は貴族や王族のものでしたが、スポーツとして官民ともに広まり、現在ではオリンピック競技となり発展し続けているのが大きな違いです。
戦後の馬術界の奇跡「パレス乗馬倶楽部」
戦後軍隊がなくなった日本の馬術は、オリンピック馬術が中心になったと思われていますが、実は戦後の一時期、皇居内にあった「パレス乗馬倶楽部」が日本馬術の中枢を担っていました。
1948年(昭和23年)に設立され、会長は当時の首相「吉田茂」氏が担当。会員は元華族や政府の中枢人物とその家族に加え、アメリカやヨーロッパなどの外国籍の人たちの200名〜300名で構成されていたと推察されます。
「パレス乗馬倶楽部」は戦後馬術の夢の殿堂
皇居内の二の丸庭園を含む大きな広場で競技会が開かれ、周辺には厩舎やクラブハウスがあり当時では珍しいナイター設備もありました。
指導者も当時の日本馬術界の精鋭がそろい、まさに戦後馬術の歴史の1ページを飾る夢の殿堂だったのです。特に現天皇陛下の立太子を祝した「立太子記念馬術大会」の規模と華やかさは、その存在を知る人の間で語り継がれています。
オリンピックと馬術の歴史
近代オリンピックと馬術の歴史は、第2回の1900年パリ大会に「障害馬術」が登場したのが最初になります。馬術競技は1912年のストックホルム大会からは3種目になり現在まで続く約120年の歴史と伝統がある競技です。また馬術競技はオリンピックでは唯一男女の区別がなく、幅広い年齢層が同じフィールドで競い合うスポーツになります。
参加選手の歴史
馬術競技の選手の歴史を振り返ると高齢の方や女性の参加も多く、高齢の方や女性でもメダルが取れるのが馬術競技の特徴です。歴史上最高齢で金メダルを獲得したのは2016年のリオ大会の障害馬術に出場したイギリスのスケルトン選手58歳になります。
日本人ではロンドン大会の法華津寛(ほけつひろし)選手は71歳の高齢です。またシドニー大会からリオ大会までの5大会で女性選手が表彰台を独占したという歴史があります。
馬術競技の懐の深さ
前述の出場選手やメダリストの歴史を見てもわかるように、馬術競技は円熟した技術が活かせる懐の深い競技です。馬術はオリンピックで唯一、動物(馬)と選手が一体となって参加する競技なので、馬との相性や呼吸が大切になります。
馬は敏感に乗り手の心を察知する動物なので、繊細な女性の気遣いや円熟した高齢者の技術が馬にも伝わり好成績が出せるのではないでしょうか。
馬は選手の大切なパートナー
馬がいなければ選手の技能がどんなに高くても、参加することも結果を出すこともできないのが馬術競技です。また馬との信頼関係や相性がよくなければ馬はいうことを聞いてくれません。そのために選手は大切なパートナーとして馬を大事にします。
どんな大会にもパートナーの愛馬とともに参加し、現地で馬を調達することはあり得ません。選手は長い時間をかけて愛馬との絆を作り上げてから競技に参加するのが馬術競技です。
日本人唯一の金メダルを獲得した西竹一選手の人生
日本人五輪の歴史で初めての馬術競技の金メダリストは、1932年ロサンゼルス大会障害馬術に出場した西竹一(にし・たけいち)選手です。これは現在まで馬術競技の歴史で日本人が獲得した唯一の金メダルになります。
しかし当時30歳で栄光を手にした軍人・西竹一の破格の人生は、栄光とは裏腹に42歳という若さで硫黄島で戦死するという第二次世界大戦の悲劇の歴史をたどるのです。
破格のスケール「西竹一」の人生
英語が堪能で国際感覚に優れていた快活な西竹一は、海外でも「バロン・ニシ」と慕われる人気者でした。ロサンゼルス大会の障害馬術は完走者がたったの5人という歴史上前代未聞の難コースだったのです。
それを制したバロン・ニシは、アメリカの新聞でも大きく報じらロサンゼルスの名誉市民にも選ばれ一躍ヒーローになりました。友好的で社交的な西竹一の性格が賞賛につながった歴史の1ページと言えます。
第二次世界大戦と馬術競技の歴史
日本の五輪参加の歴史は1928年のアムステルダム大会より始まり、1932年のロサンゼルス大会で西竹一選手が金メダルを獲得し日本の飛躍が期待されました。
しかし第二次世界大戦が勃発という歴史の不運で1940年の東京大会と次のロンドン大会は中止されたのです。日本の馬術界は大打撃を受けました。戦後1964年の東京大会ではメダルはありませんが、戦争の空白という歴史がなければどうなっていたのでしょうか。
競技馬術の種類
近代オリンピックで採用されている馬術は、ヨーロッパ発祥の歴史と伝統があるブリティッシュ馬術で、競技種目は「障害馬術」「馬場馬術」「総合馬術」の3種類です。そのほか馬のマラソンと言われる「エンデュランス」などもあります。
障害馬術
障害馬術はオリンピックで最も早く採用された競技で、選手と馬が力を合わせ、障害を飛び越える姿は華麗で迫力満点のまさに花形競技です。アリーナと呼ばれる場内に設置された障害物を、順番通りに飛び越し早くゴールするか、または減点を競います。飛び越すタイミングを選手は的確に判断し、馬がいかに反応するかが勝負のポイントになります。
馬場馬術
馬場馬術はブリティッシュ馬術の最も基本的な要素を含んだ歴史ある競技で馬の動きの美しさと正確さを競います。20m×60mの長方形のアリーナ内で馬のステップや図形を描く動きの正確さと美しさを審判が10点満点で採点し得点率で優劣を競うのが馬場馬術です。
また演技プログラムが決まっている「規定演技」と音楽に合わせて自由な構成で行う「自由演技」があることからフィギュアスケートに似ていると言われます。
総合馬術
総合馬術は同じ人と馬のコンビネーションで、馬場馬術、クロスカントリー、障害馬術の3種目を3日間かけて競うので馬のトライアスロンとも言われます。最も見どころがあるのは2日目に行われるクロスカントリーで、数kmの自然の地形を活かしたコースに30〜40個の障害物が設置され選手と馬のスタミナと勇気が必要とされる種目です。
馬術競技が開催される会場
日本はオリンピックを過去にも開催し、馬術競技も東京2020で2度目です。オリンピックでは「障害馬術」「馬場馬術」「総合馬術」の3種目が行われるので会場も限られます。オリンピックの歴史にゆかりがある会場や、馬術競技が開催される主な競技会場を紹介しましょう。
①軽井沢総合馬術競技場
長野県の軽沢町にあるこの競技場は1964年の東京オリンピックの総合馬術競技が行われた会場です。また敷地内には1998年の長野冬季オリンピックのカーリング会場があります。この軽井沢町は世界でも珍しい夏冬両方の五輪が開催された街です。現在では運動公園として整備され2つの五輪の聖火台が展示され資料館もあります。
②JRA馬事公苑
東京都の世田谷区にある馬事公苑は、1940年に日本初の馬事施設として開設され東京ドーム約4個分の敷地面積を持っています。1964年の前回の東京オリンピックと東京2020オリ・パラの馬術競技のメイン会場です。参加馬の厩舎も整備されており全日本大会など各種大会も開催される会場になります。
③山梨県馬術競技場
八ヶ岳の南麗標高1000mの高地にあり、障害馬術、馬場馬術、総合馬術競技のクロスカントリーコースもある緑に囲まれた競技場です。毎年夏には「八ヶ岳ホースジョー」など馬に関するイベントも開かれています。また気軽に乗馬体験が楽しめる施設です。
④三木ホースランドパーク
兵庫県の三木市にある会場で、日本最大級の総合馬術クロスカントリーコースがあります。また馬術競技場のほか宿泊施設やキャンプ場も備えている総合施設です。馬術競技会のほか引き馬・馬車試乗会やさまざまなイベントも開催されます。ポニーの乗馬体験もでき楽しみながら馬と触れ合える施設です。
⑤御殿場市馬術・スポーツセンター
富士山の麓(ふもと)にある競技場で、馬術競技の強化拠点ナショナル・トレーニングセンターに指定されています。屋外競技場2面と屋内競技場2面を有し、競技会以外にも強化合宿や強化訓練にも利用される総合会場です。富士山の雄大な景色の中で行う馬術は馬にとっても人にとっても格別な気分が味わえます。
馬術の歴史と競技を楽しもう!
日本の馬術の歴史は、流鏑馬などの古式武術から近代オリンピックのブリティッシュ馬術に至るまで、馬と人との信頼とキズナの歴史とエピソードが展開されてきました。また競技馬術の種類やルールを知ることによって、馴染みが薄かった馬術が身近に感じられるのではないでしょうか。ここまでの記事を参考にして馬術を楽しんでください。
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出典:unsplash.com