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海賊と呼ばれたマルコ・パンターニ!映画にもなった最強レーサーの伝説を解説!

20世紀最強のヒルクライマー、マルコ・パンターニ。90年代、イル・ピラータ(海賊)の名を馳せたマルコ・パンターニは、イタリアで絶大な人気を誇る選手でした。映画にもなった彼の生きざまは伝説そのもの。今回は、ライディングフォームや名言などを交えてご紹介します。
2020年8月27日
水木誠人
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マルコ・パンターニの伝説的な生きざまをご紹介

イタリアの英雄マルコ・パンターニとは

Photo by CiclismoItalia

マルコ・パンターニは、1998年、イタリアの最大の自転車レースであるジロ・ディタリアと、世界最大の自転車レースでもあるツール・ド・フランスのダブルツールで個人総合優勝を果たした偉大なる山岳クライマーです。スキンヘッドに顎鬚をたくわえ、ピアスにバンダナといういでたちで、イル・ピラータ(海賊)の愛称で呼ばれました。アグレッシブな走り、ハンドル下を握るダンシングフォーム、サドルの後方に座りなおすヒルクライムフォームで、数々の伝説的シーンを生み出してきたマルコ・パンターニは、多くの自転車ファンを魅了し続けています。

いまだにパンターニの名は自転車界に轟く

Photo by Numerius

ところが、1999年、メディカルチェックで出場停止となって以来、パンターニの人生は一転して転落し、2004年、コカインのオーバードースが原因で死亡と発表されます。この彼の死にはさまざまな憶測が飛び交い、2014年、彼の死について再捜査が決定され、彼は殺されたという報道もあり、現在もなお、自転車界でニュースとなっています。そんなマルコ・パンターニの生きざまについて、時系列でご紹介したいと思います。

海賊マルコ・パンターニの伝説のはじまり

偶然が伝説を生んだ

Photo by paPisc

マルコ・パンターニは1970年1月13日、イタリアの北東に位置するチェゼーナで生まれました。幼少時代はチェゼナーティコで育ち、多くの子どもたちと同じようにサッカー選手に憧れた子どもでした。小柄ですばしっこいパンター二でしたが、サッカーでは活躍する機会がなく、なかば偶然に地元の自転車クラブの一員になります。

無名選手からの脱却

Photo by jorge.cancela

1984年、マルコ・パンターニは、地元ロマーニャで次々と勝利を収め、その才能を発揮していきます。ロマーニャ地方の代表チームに呼ばれ、マルコ・パンターニの自転車選手としての道が開けていきます。85年にはアッリエーヴィ(練習生)のカテゴリーに入り、自らの才能を山と関係があることを悟りはじめたのもこの頃です。

デビュー前の海賊マルコ・パンターニ

無敵のエースではなかった

Photo by CiclismoItalia

マルコ・パンターニは、無敵のエースではありませんでした。ユニオーレス(ジュニア)カテゴリーに移った後も、マルコ・パンターニのまわりには彼よりも速い選手が何人もいました。1987年、イタリアのベルガモで開催されたジュニア選手権自転車競技大会にも呼ばれませんでした。

最初の勝利がプロへと導いた

Photo by Numerius

1989年、マルコ・パンターニはディレッタンティ(アマチュア)カテゴリーに昇格しようとしていたころ、ラ・ジャコバッツィチームへ移籍した後に、最初の勝利が訪れました。ヒルクライム・タイムトライアルのクロノスカラータ・デッラ・フータというレースで、このとき、マルコ・パンターニが出した記録は、イタリア国籍のオールラウンダー、ジャン二・ブーニョに匹敵する記録だったのです。この勝利からはじまり、ついに1990年、ベイビー・ジロで表彰台に上がり、1991年、総合2位、そして、1992年、ついに優勝を遂げます。

デビュー直後の海賊マルコ・パンターニ

Photo by _Andrish_

プロとしてデビューを果たしたマルコ・パンターニでしたが、当初はなかなか勝つことができませんでした。1993年、ジロ・デ・イタリアでは、腱炎のために大事を取ってリタイアするなど苦戦が続きました。そんなパンターニに道が開けてくるのは、1994年のことです。この年のジロ・ディタリアでは、時のヒーローであったミゲル・インドゥラインと渡り合い、ステージ優勝を勝ち取りました。

ミゲル・インディラインの時代の到来

いまだ破られない記録保持者

Photo by Numerius

牛追い祭りで知られるスペインのバスク地方に位置するパンプローナ出身のミゲル・インドゥラインは、マルコ・パンターニと同時代の自転車ロードレースの選手でした。1989年、ツール・ド・フランスで初のステージ優勝を遂げたのち、一気にその最強の才能を見せはじめます。1991年、初のツール総合優勝を決めたのち、1992~93年には、ツールとジロのダブルツールを連続で達成しました。以降、インドゥラインは1995年までツールの個人総合5連覇を達成したたけではなく、数多くのタイトルを得ました。

マルコ・パンターニが異彩を放った訳とは

Photo by Numerius

ミゲル・インドゥラインは、タイムトライアルでタイムを稼ぎ、山岳ステージでタイムを守り抜くという独特のスタイルを確立しました。彼の功績は、その後、多くの選手が同じスタイルを踏襲するようになり、ピュアクライマーが総合優勝するのが難しい時代へとなっていきました。そんな中、最強のクライマーとしてその輝きを放っていたのがマルコ・パンターニでした。マルコ・パンターニの活躍は、1994年に開花します。


海賊マルコ・パンターニが開花した1994年

あの独特のフォームを見せつけた第14ステージ

マルコ・パンターニがその名を世界中のダウンヒラ―をうならせ、その名を一気に轟かせたのは、1994年のジロ・ディタリアでした。このとき、最強のクライマーは下りで伝説的な走りとフォームを世界中に見せつけたのです。第14ステージは、伝説の峠を迎える第15ステージを目前に、だれもが体力を温存するステージだと認識していました。ところが、マルコ・パンターニは、サドルから腰を浮かせ、ヒップがほとんど後輪につきそうなほど腰を下げ、限りなく空気抵抗を減らすフォームで、一気にステージ優勝を果たすのです。なお、このフォームは、胴が短く足が長いパンターニだからこそ可能なフォームです。さまざまな研究結果の賜物ですので、ヘタにこのフォームを真似しないようにしましょう。

続く第15ステージと連勝

1994年のジロ・ディタリアの第15ステージは、標高2800メートル近いイタリア最高峰の峠であるステリヴィオ、死者の名簿という意味にもとれるモンティローロという大きな見どころが続くステージでした。このステージで、90年代前半に無敵を冠した王者インドゥラインが、若者パンター二からのアタックに反応できず、パンターニがステージ優勝を果たすという快挙が起こりました。結局、インドゥラインを抑えてマルコ・パンターニは総合第2位を果たし、最強のクライマー史上初めてのツールが訪れるのでした。

栄光と不運の海賊マルコ・パンターニ1994~95年

インドゥラインの因縁に立ち向かうパンターニ

Photo by Numerius

1994年のツール・ド・フランスをご覧になった方は、王者ミゲル・インドゥラインがいかにマルコ・パンターニをライバル視していたのかを実感したことでしょう。ジロでの大敗北などまるでなかったかのように王者ぶりを発揮していたツールのインドゥラインは、決してステージ優勝をパンターニに譲ることはありませんでした。しかし、あきらめない伝説のクライマーは何度もアタックをかけ続けました。

英雄が誕生した1994年のツール

1994年のツール第17ステージでの接触による落車は、マルコ・パンターニの後に続いていく不運のはじまりでもありました。しかし、それでも再び立ち上がり、アタックをかけていく彼の姿に、ツールの国であるフランス人たちは魅了され、英雄と名付けました。結局、ツールでのステージ優勝は果たせませんでしたが、総合第3位、最優秀若手選手賞であるマイヨ・ブランを獲得しました。ここに本物の最強のクライマーが誕生したのです。

不運と栄光の連続の中で

1995年、ジロ・ディタリアの直前、マルコ・パンターニはトレーニング中に不運な事故に遭い、欠場を強いられました。しかし、夏のツール・ド・フランスでは、再び栄光をつかみます。この年、かの王者インドゥラインがツール5回目の連覇を獲得した年でもありますが、マルコ・パンターニは、超難関山岳ポイントが設けられていた第10ステージにて史上最高の上りタイムを記録し、ステージ優勝を果たした年でもあります。続く第14ステージでも優勝し、総合では13位に入ったものの、2年連続でマイヨ・ブランを獲得しました。

天から地へと落ちる海賊

1995年、ツール・ド・フランスの後に開催された世界選手権では3位に入るなどの活躍を見せたマルコ・パンターニでしたが、その直後に開催されたレースで選手生命の危機とまで騒がれた大きな事故に遭います。レース中、逆走してきた車と正面衝突してしまったのです。われらが最強のクライマーは、リハビリと回復のため、1996年は一度もレースに出場することがありませんでしたが、この事故によって、彼はアスリートとして重苦しい問題も抱えることになったのです。

ドーピング問題のはじまり

1995年の大事故は、マルコ・パンターニの悲劇のスタートでもありました。実はこの事故の際、パンターニの血液のヘマトクリット値が通常値をはるかに超えていたことで、数年後、告発されてしまうのです。その理由は、スポーツパフォーマンス向上させるという副作用のある重度の貧血症などに処方されるエリスロポチエンを不正に使い、レースに勝とうとしたというものでした。この告発は結局、当時、ドーピング薬物使用による不正行為というものが想定されていなかったとして無罪となりましたが、この裁判はパンターニの心に深い傷を負うことになります。

栄光と不運の海賊マルコ・パンターニ1996~97年

お茶目なマルコ・パンターニ

1996年のマルコ・パンターニは、リハビリと回復のため、一切のレースに出場しませんでした。が、実は、こっそり故郷の自転車の大会に出ていたということがわかっています。その日、ピッタリした真っ赤なボディスーツを着た黒髪の女性がスタート地点に現れました。この女性が、コースの途中の上りでスパートし、地元サイクリストたちからどんどん差をつけたとき、はじめてその女性がパンターニだったことに気づいたわけです。このエピソードは、パンターニの穏やかな人柄を象徴するものです。

ジロのリタイアとツールへの復帰

Photo bystokpic

1997年、新しいチームとなったメルカトーネウノのエースとして、徐々に復活していったマルコ・パンターニ。ところが、ジロ・ディタリアの第8ステージのゴール地点の下りで、目の前を横切った猫をよけようとして落車しリタイアするはめになりました。不運と絶望の淵で、それでも回復に努め、最強のクライマーは夏のツールへと前進していきます。そして、97年のツールでは、アルプスの名勝負の舞台であるラルプ・デュエズの山頂ゴールが設定されている第13ステージで、いまだ破られていない最短記録37分35秒でステージ優勝し、続く第15ステージでも優勝、総合第3位と完全に復活を遂げる結果を出したのです。

ダブルツールを達成した1998年

念願のマリア・ローザを手に


1998年という年は、マルコ・パンターニの絶頂の年でした。ジロ・ディタリアでは、第13ステージで落車したものの、ピアンカヴァッロ山に向かう第14ステージで優勝、また最後の高地ゴールである第19ステージのモンテカンピオーネの伝説的な上りでも優勝を決め、念願の総合優勝を果たし、マリア・ローザを手に入れます。また、山岳賞(マリア・ヴェルデ)も同時に獲得し、パンターニは不運に打ち勝ち、ようやく念願の夢を手に入れたのです。

波乱の多かった1998年ツール

スタート直前、フランスのフェスティナチームの車から大量の薬物が押収され、波乱の幕開けとなった1998年のツール。マルコ・パンターニも出だしは最悪でした。しかし、パンターニの選手人生で最高の日となった第15ステージ、平均10%の勾配が10km も続くガリビエ峠でアタック、単独で頂上まで駆け上がり、総合首位に躍り出ます。こうして総合優勝を獲得し、ファウスト・コッピからはじまる史上7人目のダブルツールを達成したのです。表彰台には、33年前にイタリア選手としてツールを制覇したフェリーチェ・ジモンディも一緒に上がり、喜びをともに祝いました。

海賊マルコ・パンターニの転落

1999年ジロの出場停止と転落のはじまり

Photo byjuliohdez

自転車選手として最高の年であった1998年に引き続き、スペインのムルシア地方を舞台にしたブエルタ・ア・ムルシアで総合優勝するなど、マルコ・パンターニは、1999年もシーズン序盤は快調でした。ところが、5月に出場したジロ・ディタリア最終日前日、抜き打ちのメディカルチェックでヘマトクリット値が規定数値を超えたことで出場停止となってしまいます。このとき、パンターニが受けた傷は、それまで以上に深いものでした。2週間の出場停止処分に過ぎないものでしたが、自転車に乗る気持ちが失せてしまい、ツールも棄権し、精神的に追い詰められ、何かが大きく変わっていくことになるのです。

アームストロングとの冷戦

Photo by Ben Sutherland

2000年、それまで選手として表舞台に出てくることがなかったマルコ・パンターニでしたが、聖2000年を記念してヴァティカン国からスタートするジロ・ディタリアに突然復帰を宣言し、マリア・ローザのチームメイトをアシスト、復活をしっかりとアピールしました。続くツールでは、栄光の二連覇を狙うランス・アームストロングに苦戦したものの、第12ステージのプロヴァンスの巨人と呼ばれるモン・ヴァントゥーでの一騎打ちを制し、第15ステージにおいても鮮やかな勝ち方でステージ優勝を果たしました。ところが翌第16ステージを前にアームストロングが記者会見でパンターニに対する論戦の火ぶたを切り、ふたりは冷戦状態に。この心理戦のため、パンターニは調子を崩して本ツールをリタイアすることになってしまいます。

ドーピング問題の再燃

2001年、本来の力を発揮できなかった前年の余韻が覚めない中、1995年に訴えられていたドーピング事件の判決が届きました。それでもレースに出続けましたが、リタイアを重ねていくばかり。結局、自転車界におけるドーピング騒動の真っただ中で、パンターニは思うように道を開けない状態が続きました。

海賊マルコ・パンターニの死

希望を失った海賊の最期

Photo by CiclismoItalia

2003年、マルコ・パンターニは人生最後のレース、ジロ・ディタリアで総合14位に入りました。続くツールへの参加を最終決定するという日の前日、パンターニは姿を消すことになります。人生をかけた自転車界からの裏切り、自らの殻に閉じこもり、薬物に依存していくパンターニの人生は終わりを告げはじめていました。周囲の助けの手が届かず、2004年、2月9日、リゾート地リミニのホテル、レ・ローザの部屋に閉じこもり、聖バレンタインデーの日、床にあおむけにひっくり返り、上半身裸の姿で、顔には打撲跡を残し、亡くなっていたのを発見されました。

パスポートに遺書

Photo byjackmac34

最強のクライマー、マルコ・パンターニはコカインの常用によるオーバードースが原因だと発表されました。そんな彼がパスポートに残した言葉には、「すべてのスポーツ選手に対して公平なルールを」と書かれていました。自転車界から才能と機会を奪われ、血を取られて検査され、いつでもだれかに監視される日々に追い詰められ、希望を失ったパンターニの最後の名言です。この名言の最後には、「僕を信じてくれるすべての若者は、このことを話してほしい」と締めくくられていました。

マルコ・パンターニの死の再捜査

マルコ・パンターニの死の本当の原因は何だったのでしょうか。彼の死から10年後、殺人だった疑いがあるとして再捜査が決定されました。その後、さまざまな憶測が飛び交いましたが、再び、新しい証言がすべての憶測を再燃させました。それは、パンターニが生きているのを最後に見たという人物が、パンターニが殺されたと主張しているということです。マルコ・パンターニの真実がいつの日か表舞台へと現れるのか、それはまだわかりません。パンターニファンとして、彼が最後に残した言葉のとおり、真実がいつか明らかとなる日を待ち望むばかりです。

マルコ・パンターニの名言①デビュー前

明るくてわんぱくだったという少年時代のマルコ・パンターニは、上りこそ彼の力を発揮する場であり、気分が高揚してくるのだと語ったと言います。「ライバルたちの後輪につけて、その苦しむ様子を見ていたい。連中が坂道でもがくのを見ていたいんだ。そしていよいよ僕が追い上げを開始して、連中がどんどんちぎれて行くのをね」。こんな明言を吐いた若きクライマーは、すでにデビュー前からその最強の力を自ら悟っていたかのようです。

マルコ・パンターニの名言②プロになる直前

マルコ・パンターニは頭がよく、自身の体力を知り、プロ意識の高さを心得ていました。プロとして、そのキャリアの中で最も重要な署名の瞬間、彼はとある名言を残しました。「給料としてはこの額でいいでしょう。でも、もし僕がジロ・ディタリアに勝ったら? ツール・ド・フランスに買ったら? 墨画プロになったのはこの二つのレースに勝つためなんだから」と。この瞬間、チームマネージャーは、ジロやツールで勝った場合の賞と賞金額を提示したといいます。

マルコ・パンターニの名言③ダブルツールの前年


マルコ・パンターニは、数々の苦難と不運を乗り越えて、1997年のツールで総合3位に返り咲きました。インドゥラインのいないはじめてのツールで1位を飾ったドイツのヤン・ウルリッヒ、2位となったフランスのリシャール・ヴィランクに対し、「彼らは要注意だね」とパンターニはつぶやいたと言います。「一年後に僕たちは再開するだろう。その時マイヨ・ジョーヌは僕のものになるだろうから」と、1998年を予言するような名言を残しました。

マルコ・パンターニの名言④ダブルツールの後

山岳の天使と呼ばれた自転車ロードレース史上有数の山岳王、シャルリー・ゴール。マルコ・パンターニは、同じクライマーの彼と話したくて、ルクセンブルグに彼を探しに出かけたことがあります。そのとき、「自転車において一番大事なのは人間なんだ。勇気を備えた人間なんだ」という点で意見が一致したと語ったそうです。ダブルツールを果たしたパンターニの名は、山岳の天使に匹敵するとして歴史に刻まれたというわけです。

映画「海賊と呼ばれたサイクリスト」とは

パンターニの人生をつづったドキュメンタリー映画

この映画は、マルコ・パンターニの激動の生涯をつづった映画です。この映画が公開されたのは2014年、パンターニが亡くなってから10年後のこと。本映画では、彼の偉業を伝えるだけではなく、ドーピングスキャンダルにも触れ、その真実を伝える映画となっています。映画はドキュメンタリー形式で、彼の偉業を映画の中でも見ることができます。パンターニの数々の伝説が、この映画にぎっしりと詰まっています。ぜひご覧あれ。

ビアンキのパンターニモデルとは?

ビアンキのパンターニモデル2018

マルコ・パンターニがダブルツールを制した1998年から20周年を迎えた2018年、軽量クライミングモデルであるビアンキのSPECIALISSIMA(スペシャリッシマ)から数量限定で発表されたダブルツール20周年記念エディションモデルがこちらです。サドルにはイル・ピラータの刺しゅうが入り、当時のパンターニを知らない人にとっても魅了されるビアンキのモデルとなっています。

ビアンキのパンターニモデル2019

2019年に発表されたビアンキのパンターニモデル、OROPA(オロパ)。1999年のジロ・ディタリアの第15ステージにて奇跡的なレース展開を見せたサントゥアリオ・ディ・オロパが由来のモデルとなっています。コンセプトは世紀のカムバック。ビアンキは、パンターニの栄光をたたえるモデルとして発表したといいます。いまだにパンターニが自転車界に大きな影響を与えている一面がうかがえます。

マルコ・パンターニの伝説よ、永遠に

独特のダウンヒルフォームで最強の走りを見せたマルコ・パンターニ。多くのサイクリストが真似したあのフォームは、もう過去の映像でしか見ることができません。人生のすべてを自転車にかけた伝説の最強クライマー。彼のいちファンとして、彼が残した最後の名言、すべてのスポーツ選手に対して公平なルールが与えられる日を待ち望んでやみません。

ビアンキのモデルが気になる方はこちらもチェック!

Photo by AndyArmstrong

独特のフォームで当時の自転車界を盛り上げたマルコ・パンターニ。数々の名言を残し、その名言がいまだに語り継がれている伝説の男が操っていたビアンキの自転車について、もっとさまざまなモデルについて知りたいという方、ぜひこちらの記事を参考にしてください。男女問わず、スタイリッシュにも本格的にも操ることのできるビアンキのモデルを検討することができるはずです。