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東京のドヤ街「山谷」とは?あしたのジョーの舞台場所の現在に迫る!

「最後の昭和」と呼ばれる、東京「山谷」。いくたの暗い歴史を乗り越え、今では海外からのバックパッカーが押し寄せ、一人旅の女性も宿泊する街に変貌を遂げる山谷地区。戦後漫画史の傑作「あしたのジョー」を育てた山谷地区の今昔物語を見どころと共に紡いでまいります。
2020年8月27日
destael2016
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東京・山谷(SANYA)を往く

山谷地区のイメージ

山谷ということばは暗い響きを持っています。古くから貧困、スラム、治安の悪さという印象があり、ホームレス、アルコール依存など、その暗いイメージが払拭できません。その暗いイメージと共に、そもそも山谷が何処にあるのか知らない人も多く、見どころどころか、東京に在るにも拘わらず、忘れかけた存在になってしまったかのようです。

そもそも山谷の場所は?

かつては「山谷」という住所があった

「台東区浅草山谷1~4丁目」。少なくとも1966年までこの住所表示が存在しています。それが消えたのは、1962年の「住居表示に関する法律」、いわゆる「住居表示法」が施行されてから。都内の住所が加速度的に変更されます。以前からこの地区は住所が解りにずらいなど、1968年に郵便番号制度の導入まで、配達に支障があり、オリンピックを前にしての決断といわれています。

山谷以外にもある消えてしまった町名

古い地名が消えていくのは山谷でだけではありません。「原宿」の地名は現在在りません、「神宮前」です。「御徒町」「田町」「田原町」「稲荷町」なども町名として名前はありません。地下鉄の駅名として残っているだけです。「住居表示法」の適用は、あっという間にすすみました。流行の「古地図で楽しむ江戸」の気分は大いに削がれてしまいました。
 

山谷への出発点、南千住駅

山谷地区へ行くには主に2通り。今の地名で、清川、日本提、東浅草、南千住を含む地区の一隅が、山谷地区といえます。最寄り駅は、南千住駅が山谷への出発点になります。10分と歩かず、山谷の中心へ着くでしょう。もう一つは浅草駅です。見どころがあり、江戸情緒を感じさせ、モニュメンタルな遺構などを観ながら山谷地区に行けますが、時間がかかります。では南千住駅に降り立って山谷へ向かいます。

山谷地区の今昔物語

山谷地区は地政学的に人の集まる場所

21世紀の今では、不思議な気がしますが、江戸随一の見どころ一杯の歓楽街、浅草は昔「港町」でした。徳川家が江戸に幕府を開いた江戸という街そのものが、広大な葦原だったといわれます。現在の千住は江戸の端であり、日光街道、奥州街道の出発点であり終着点ということで、庶民が集い、旅人、出稼ぎ人、などが必然的に集まる場所でした。そのため現在の山谷周辺には、貧困と治安の問題を抱えつつ、木賃宿や歓楽的な施設がが建ち並ぶ街に変貌していきます。

百万都市・江戸

江戸人口は、18世紀前半に百万人、18世紀中頃のロンドン60万、パリ70万、ニューヨーク1万4千という中で世界一の人口です。清朝の北京で約百万といわれ、京都と大阪は40万〜50万ほどでした。町家の面積2割に50万の人が住み、巨大消費都市に、食いつめ者、職人、奉公人、日雇い人夫、貧困層、売春目的などで人が集中します。特に街道の終着点は劣悪な環境で、治安の問題とスラム化が進みます。山谷はこういう歴史的背景がありました。

山谷へ:「小塚原刑場跡」は最初の見どころ

南千住駅前には「小塚原刑場跡」があります。江戸の刑場は、巨大化する江戸の街に追われるように点々と場所を変えます。犯罪者の死体が転がり、死臭で近づけないこともあり、受刑者は、南にある山谷地区の「泪橋」で親類と別れ、刑場へ連れて行かれたそうです。放置された遺体のあまりの惨状に、亡きがらをしっかり葬ったのが、小塚原回向院から分院独立した「延命寺」です。


吉田松陰も鼠小僧もここに眠っている

江戸末期の「安政の大獄」で処刑された「吉田松陰」や橋本左内、頼三樹三郎の墓所があり、江戸の人気者、「鼠小僧」も葬られています。また「解体新書」で知られる杉田玄白は、人体図を完成するために「腑分け」をしたとされ、「解剖人墓」の石碑が建っています。近世江戸から近代東京へ到る道しるべを見つけることが出来ます。

消えた「山谷堀」

賑わいと旅館街の形成

山谷地区の南端に「山谷堀公園」があります。江戸は湿地帯で水路が多く、隅田川に流れ込んでいました。今では堀は埋められ、暗渠になっていますが、「吉原遊郭」全盛期には、この山谷堀を船で漕ぎ着け、遊女の元へ上がるのが豪商などの粋な遊び方でした。同時にこの水路は、江戸の外部から運び込まれる野菜や郷土品などを供給する市場にもなり、山谷地区は、様々な人が集まる活気の場所と旅館街を形成していきます。

吉原、山谷堀:「ひやかし」の語源

山谷地区の堀では、紙職人が紙漉きのために、原料を堀の水に浸している間、京都「島原」と並ぶ超高級な遊郭街「吉原」へ行き、遊女の姿を眺めたり話しかけたりします。仕事中で時間もありませんし、貧困層には手の届かない場所、見ているだけです。遊郭では彼らが山谷堀で「紙を冷やかしている」のを知っていて、見るだけで買わない連中です。これが「ひやかし」の語源とます。

山谷地区の変貌、労働力不足と都市の再生

江戸時代には、山谷に旅館街があったと書きましたが、実際は「木賃宿」といわれる業態で、貧困層の人たちのための旅館、今でいう「簡易宿泊所」のようなものでした。自炊が基本で薪代程度で泊まることが出来たようで、わけありの巡礼者などが泊まる宿泊施設へと変貌し、治安の悪化と共に一般の宿泊客さえも遠ざかってスラム化した貧困の地区になってしまいます。

〈豆知識〉旅館と簡易宿泊所の違いって?

日本の法律では、旅館業はホテル営業、旅館営業、簡易宿所営業、下宿営業に分類され、簡易宿所営業(簡易宿泊所)は、多人数で共用する構造で、風呂やトイレは共有、山小屋やスキー小屋、スポーツ合宿所、ユースホステル、カプセルホテルや民宿がこれに該当します。2020年の東京オリンピックへ向けてのインバウンドの流入に備えて、政府が奨励する、流行の「民泊」は又別の法律で、解りずらいのが現状です。

高度成長の原動力へ:山谷地区の絶頂期

活況の「どや街」:在りし日の山谷

明治に入って、日本は富国強兵、殖産興業の一大目標と、首都東京の整備に、地方の農業の弱体化がマッチして、東京に巨大な労働力需要が発生します。鉄道網の発達は、上野などへ人を呼び、貧困の労働者が集まるという構図が出来上がります。関東大震災の復旧、戦後の復興はこの流入をさらに加速させ、山谷および周辺地区は、超格安な宿が立ち並ぶ、いわゆる「ドヤ街」を作り活況を呈していきます。

「ドヤ街」って?

「ドヤ」は「宿」を逆さ読みしただけのことですが、自虐的な感じがします。「どさ回り」が犯罪を犯すと佐渡へ島送りになる、「佐渡→どさ」と同じ使われ方でしょう。山谷は上京した若い男たちが仕事を求め、簡易宿泊所に泊まり、日雇労働に従事します。仕事を手配する「よせ場」が多く開設され、日雇い労働の一大拠点になります。しかし搾取も多く、重労働、犯罪者が逃げ込んだり、貧困が続き、時には暴動に発展したりしました。街はスラム化し治安が乱れていきます。

山谷「ドヤ街」の衰退


日雇い労働者を仕切る建設業は、現場が終了すれば、労働者は必要在りません。常時雇用は無く、必要な時に若い人材を確保すればいいだけです。要らなくなったら捨てる、というのが山谷の姿で、ドヤ街の日雇い労働者の実情です。そして、80年代末期には日雇い労働者の存在は一変します。生活水準が上がり、都市整備が一巡し、労働者の高齢化とバブル経済の終焉は、山谷地区の凋落を予感させます。日本の近代化を支えた山谷地区の役割が終ったのです。

時代を象徴する歌「山谷ブルース」

フォークシンガー岡林信康の「山谷ブルース」は時代の鏡といえます。高度成長の陰で様々な矛盾が生まれ、その歪みは「山谷ブルース」の歌詞に現われています。「今日の仕事はつらかった/あとは焼酎をあおるだけ」「一人酒場で飲む酒に/かえらぬ昔がなつかしい」「工事終ればそれっきり/お払い箱の俺たちさ」など、当時の山谷、そして貧困、東京という場所、スラム化したドヤ街の光景がくっきり浮かんできます。反戦歌と共に反体制の反旗ともとれる、岡林のデビュー作です。

山谷の聖地「泪橋」と「あしたのジョー」

時代の波は、山谷をホームレスの街へ

仕事を失った山谷の住人は、「ドヤ」のお金も払えず、徐々に「路上」へ出てきます。山谷の受難時代の始まりです。東京都の規制や生活保護などもあり、行き場を失った人たちが山谷に集められ、山谷は「ホームレスの街」であり「棄民の街」「斜陽の街」としてクローズアップされてしまいます。一方社会福祉にも目が向き、様々な福祉施設が出来て、貧困から「福祉の街」への変貌も始まります。そんな時代にひとりの救世主が山谷に現われます。「あしたのジョー」の誕生です。

山谷と「あしたのジョー」という記憶

「あしたのジョー」の主人公は、どこで生まれたかは書かれていませんが、山谷を中心にした不良少年として登場します。したがって主人公「矢吹丈」は、スラム育ち、貧困、ドヤ街、というイメージを最初から背負っているわけです。どん底から頂点に昇っていこうという強い意志に貫かれた主人公に、山谷の住人は夢を託しただろうことは十分想像できます。

「あしたのジョー」は、山谷・泪橋出身

もうひとりの重要人物「丹下段平(たんげだんぺい)」は、山谷の中心への入口「泪橋」のたもとでボクシングジムを開いている男として登場し、山谷の代名詞というイメージを背負っています。かつては強いボクサーとして活躍もした経歴がありますが、今は落ちぶれて、酒に溺れている男です。この「泪橋」には「思川」が流れていましたが、現在は暗渠化されて川そのものは見えません。二人の出逢いと、二人の挑戦「あしたのための123」は山谷泪橋から始まることになります。

宿敵「力石徹」の葬儀 

ジョーの宿命のライバルとして登場するのが「力石徹」です。劇中に、ジョーとの死闘を経て亡くなってしまいますが、劇作家寺山修司を中心に力石徹の葬儀が行われました。主人公でもなく、マンガの中の架空の人物の葬儀に国民は驚きましたが、大きな賛同と共に、社会現象となります。学生運動の凋落、安保闘争の敗北など、時代を写すものとして語り継がれています。それは山谷を取り巻く環境とも呼応していました。

「あしたのジョー」から「昭和レトロ」という潮流

ノスタルジーの風景:あの頃は良かったという感慨

忘れられたスラム街「山谷」は思いがけず光を浴び始めます。大都会にありながら、どこか懐かしく、想い出に残っている風景だと感じる人たちが現れます。江戸ブームのように、「昭和レトロ」という、ノスタルジーの原風景が山谷に残っているというのです。山谷が外国のスラムや貧民街と決定的に違うのは、近所に民家や学校もあり、凶悪事件や暴動などが非常に少なく一概に治安が悪いとは言えないことです。のどかだった昭和の雰囲気を求めて、また「あしたのジョーの」面影を辿る、という人が現れたのです。新しい見どころが生まれました。

「あしたのジョー」と共にある「いろは会商店街」

懐かしき「昭和」の雰囲気は、山谷の中心「いろは会商店街」に見どころとして残っています。古いアーケードには「あしたのジョー」を彷彿させる垂れ幕がぶら下がり、そこかしこにジョーの思い出を見つけます。シャッター街になっているにも拘らず、懐かしさがこみ上げて、画像は商店街の雰囲気を残しているものを選びましたが、アーケードの屋根は2017年の終りには取り外され、見どころがひとつ無くなりましたが、山谷に「陽が射した」わけです。山谷にもじわじわと、新しい波が押し寄せてきます。

 


新しい波:山谷地区のあした 

思いがけない山谷の復活:インバウンドの流入

日本への外国人の入国者(インバウンド)は2018年の8月下旬に早くも2000万人を突破しました。2020年のオリンピック開催の宣伝効果でしょうか、とくにバックパッカーと呼ばれる若い層が、日本に強い興味を抱いたことも影響しています。世界的な日本人気なのです。「寿司」「天ぷら」「爆買い」の国から、「礼儀」「おもてなし」「アニメ」「歌舞伎」など日本文化へ興味が変化してきたのです。

山谷に日本的人情を求めて:バックパッカーの到来

山谷のドヤ街の宿泊施設は、「とにかく安い」というのが一大特徴です。しかも海外のユースホステルなどに比べると格段に居住空間やアメニティが整っています。日本に来るバックパッカーは、山谷のドヤ街に泊まり、日本を楽しむようになりました。おまけに古きよき昭和の香りと人情もあり、外国人が集まります。海外のスラムと、治安のレベルが違うことが大きな要因でしょう。

東京オリンピックと山谷地区、再開発の予兆

一大転機となったサッカーW杯日韓大会

サッカーW杯は、世界のあらゆるスポーツで最も人気が高く、開催国には観客がドット押し寄せます。2002年の日韓合同開催でも、海外から観戦に人が訪れました。長期滞在の人たちが選んだ宿泊施設が、山谷や大阪、横浜などのドヤ街でした。彼らの経験は、世界中に知れ渡り、治安の良い、日本の安い宿泊施設として認知されます。日本向けのガイドブックにも、格安な宿泊施設として掲載され、インバウンドの人たちに周知されていきます。

日本らしさの山谷地区と首都にそぐわない景観

山谷の中心街からはスカイツリーが見えます。時代を象徴するランドマークと「負の遺産」である山谷が端的に解ります。インバウンドが見出した新しい山谷は一人旅の女性にも人気で、急激な変化が目前に来ています。明治通りには構想ビルが建ち始めました。東京オリンピック関連の建設ラッシュ以外にも、都心に近いことで、高層マンションの建設も予定されているようです。おかげで隅田川の花火大会の「特等席」は無くなったそうです。昭和へのオマージュ、あるいはノスタルジーの風景としての山谷、つまり「最後の昭和」と言れた山谷にも大都会の論理が迫ってきました。

まとめ

変貌を遂げる「山谷」。大都会に残った「最後の昭和」山谷は資本主義の縮図でもありました。2020年東京オリンピックを前に、「あしたのジョー」に逢いに行く、という気軽な気分で一度訪れてはいかがでしょう。「あのころは良かった」「昭和ってこうだったんだ!」という気分に浸れるのではないでしょうか。