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ウーリー・ステックとは?唯一無二!世界最強登山家の半生を語る!

アルプス三大北壁であるアイガー、グランドジョラス、マッターホルンの最速登頂記録をもつ名登山家、ウーリー・ステック(Ueli Steck)。「スイスマシーン」の異名をとる彼はどんな人物だったのか?ウーリー・ステックの半生に迫ります!
2020年8月27日
Maiko. H
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「スイスマシーン」と呼ばれた登山家ウーリー・ステック

スイス人の登山家、ウーリー・ステック(Ueli Steck)は、その類まれなる登山技術と高所耐性から唯一無二、世界最強の登山家として知られています。 その異名はなんと「スイスマシーン」。険しいアルプスの山々をあっという間に登ってしまうスピードと確かな正確性からそのように呼ばれるようになりました。

単独でアルプス最速登頂記録達成!

ウーリー・ステックが「スイスマシーン」と呼ばれるきっかけにもなったのが、2008年と2009年に樹立した、アルプス三大北壁のソロ最速登頂記録です。 ・2008年 アイガー北壁ソロ 最速登頂記録(2時間47分33秒) ・2008年 グランドジョラス北壁ソロ 最速登頂記録(2時間21分) ・2009年 マッターホルン北壁ソロ 最速登頂記録(1時間56分)

2015年にアイガー北壁ソロの最速登頂記録を更新!

さらに、2015年には自身の持つアイガー北壁ソロの最速登頂記録を24分43秒も更新し、その最速登頂記録を2時間22分50秒としました。 しかも、その登山方法はすべて単独(ソロ)! ほとんどの登山家はチームを組み、2日ほどかけて登るエベレストを彼はソロで、しかも2、3時間で登りきってしまったのです。 「世界最強」「化け物」「スイスマシーン」と呼ばれるのも納得の記録です

命綱なし!最低限の装備

ウーリー・ステックのスピードの秘密は、その装備の少なさ。 なんと、標高4,000m級の山々を命綱なしで登っていました。その姿にはまるで近所の公園を散歩しているかのような余裕すら感じます。


また、ウーリー・ステックは酸素ボンベを装備しないで登頂する、いわゆる「無酸素登頂」で登っています。 通常、標高4000m級の山になると、高山病を回避するためにも酸素ボンベを持参します。しかし、ウーリー・ステックは高所に順応するのが早く、何度も酸素ボンベなしで登頂することに成功しています。 命綱や酸素ボンベなど、極力装備を軽くすることで登山スピードを上げることに成功した彼はエベレスト登頂以外にも多くの最速登山記録を樹立します。

ウーリー・ステックの記録がすごい

ウーリー・ステックが打ち立てた記録はエベレストだけではありません。 2001年から2015年までの15年間の間に、初登頂や最速登頂などあわせて9つの登頂記録を樹立しています。 ・2001年 プモリ西壁 初登頂 ・2001年 アイガー北壁"The Young Spider" 初登頂 ・2006年 ガッシャーブルムII峰北壁 初登頂 ・2008年 アイガー北壁ソロ 最速登頂記録(2時間47分33秒) ・2008年 グランドジョラス北壁ソロ 最速登頂記録(2時間21分) ・2009年 マッターホルン北壁ソロ 最速登頂記録(1時間56分) ・2011年 シシャパンマ南西壁ソロ(10時間30分) ・2013年 アンナプルナ南壁ソロ ・2015年 アイガー北壁ソロ 最速登頂記録更新(2時間22分50秒) また、2017年春にも、エベレスト西稜からローツェへの縦走するという難しい登山計画をたて、準備に励んでいました。

記憶にも残るウーリー・ステックの登山エピソード

ここまでウーリー・ステックの記録を見てきましたが、記録だけではなく、記憶にも残るのがウーリー・ステックです。ここからは彼の記憶に残るエピソードを3つ紹介していきます。

「私はマシーンじゃない」

2016年2月に訪韓した際、月刊MOUNTAIN誌の取材を受けたウーリー・ステックはそう答えました。 「スイスマシーン」は当時彼の映像を製作していた会社がつけた異名だったそうです。 ウーリー・ステックのスピードや正確性が評価され、それをより強くアピールするためにつけられたニックネームですが、本人はあまり気にっていなかった様子。 「登山を楽しむ」ことに重点を置いているウーリー・ステックは、彼のマシーンのような登り方とはまったく違う考え方を持っていました。 10年後の姿を聞かれると、彼はより多くの記録を打ち立てるよりも、冒険心を大切にしたいと答えています。 「10年後、最高のクライマーでなくなったとしても、クライミングを愛するだろう」  彼はそうインタビューを締めくくりました。


http://www.emountain.co.kr/news/articleView.html?idxno=9721
2016年2月2日 月刊MOUNTAIN誌 インタビュー記事

自らの記録を断念した救出劇

マシーンではないウーリー・ステックの人間性をあらわす代表的なエピソードが、2008年のアンナプルナの登山中に起きた、遭難事故での救出劇です。 2008年5月、登山者の死亡率が高いことから「キラー・マウンテン」の異名を持つヒマラヤ山脈の難所アンナプルナ南壁でウーリー・ステックが登頂に挑戦しているとき、同山に挑戦していたイニャキ・オチョア・デ・オルサの一隊が遭難するという事故が起きました。 それを聞いたウーリー・ステックは、迷わず自分の挑戦を捨て、イニャキ・オチョア・デ・オルサ隊の救出に向かったそうです。 遭難した2人のうち1人は救助の甲斐なく亡くなったものの、うち1人はウーリー・ステックら駆けつけた登山家たちの迅速な救助活動により一命を取り留めました。 事件後、このウーリー・ステックやチームメイトのシモン・アンターマッテンの勇気ある行動に「プリ・クラージュ(Prix Courage)賞」が送られました。 そして、後にこのエピソードは、「アンナプルナ南壁 7,000mの男たち」という映画になり、ヒットを記録します。

エベレスト登山中に乱闘!?

しかし、心温まるエピソードだけではありません。 実は、ウーシー・ステックは他のチームの登山家たちとの乱闘騒ぎも起こしたこともあります。 この事件について、2013年5月2日に配信されたAFPは次のように報じています。 ※文中でウーリー・ステックはウエリ・シュテックと表記されています。

世界最高峰エベレスト(Everest)で起きた欧州の登山家グループとシェルパ(ネパール人登山ガイド)らの乱闘をめぐり、けんかを売ったのはシェルパを罵った登山家たちだったとする新たな目撃証言が2日、明らかになった。  この騒動は、エベレストで前月27日、スイス人の登山記録保持者ウエリ・シュテック(Ueli Steck)氏と4回のエベレスト登頂歴を持つイタリア人のシモーネ・モロ(Simone Moro)氏、英国人山岳写真家のジョナサン・グリフィス(Jonathan Griffith)氏らが、新ルートでの無酸素登頂を目指している最中にシェルパたちと乱闘になったもの。 (中略)  乱闘を目撃した人々からは、ロープを取り付けるまで待ってほしいとのシェルパ側の要請を欧州の登山家らが無視したために、ローツェ(Lhotse)の氷壁で両者が口論を始めたとの証言が出ている。

なぜウーリー・ステック隊がシェルパ側の要望を無視したのかは明らかとなっていませんが、後日双方が謝罪した上、和解したそうです。 しかし、この騒ぎがあった日、ウーリー・ステックの一行は登山を続けずに下山。そのまま登頂を果たさずに、各国に帰国をしたそうです。 「登山を楽しむ」ことをモットーとしているウーリー・ステックのマシーンではない一面が垣間見れます。

ウーリー・ステックの救出劇が映画化:アンナプルナ南壁 7,000mの男たち


ウーリー・ステックがアンナプルナ登山中に遭遇した遭難事件は2012年に映画化されました。

この映画は、アンナプルナ南壁でイナキ・オチョア・デ・オルツァ隊が遭難した事故のドキュメンタリーで、その救助参加した世界10ヶ国12人の登山者たちの証言を中心に構成されています。 ウーリー・ステックも登場し、当時の過酷な状況を語っています。

最速の登山家ウーリー・ステックの最期

2017年4月30日、突然の訃報に世界が震撼しました。 ウーリー・ステックが世界最高峰のエベレスト(8848m)で死亡。 高所順応中だった彼は、登山中に滑落したそうです。40歳という若さでした。 登山家の間で「デス・ゾーン」といわれる8000m以上の標高に順応するために入山したウーリー・ステックはそのままかえらぬ人になってしまいました。 他の登山家よりも高所順応が早かったウーリー・ステックは、通常数日から数週間かかるとされる高所順応が、滑落した時点では既に終わっていたそうです。 8848mのエベレスト登頂目前の悲劇でした。

まとめ

出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%83%E3%82%AF

数々の記録を打ちたてた「スイスマシーン」、ウーリー・ステック。 しかし、彼はマシーンとは程遠い、とてもあたたかい人物だったことが、数々のエピソードからわかります。 唯一無二の最強登山家として、亡くなってからもずっと、登山家の中で生き続けることでしょう。